「私のものさし」で測る子育て
私は、自分の親から言われたことを素直に受け入れて育ちました。
「勉強しなさい」「こうすべき」――そうした言葉を疑ったこともなく、「正しい人生」とはこういうものだと自然に思い込んでいました。
私にとっての“当たり前”は、親から受け継いだ“ものさし”。
だからこそ、娘にも同じ価値観を無意識のうちに押しつけていたのかもしれません。
その背景には、私自身の“学歴コンプレックス”も影を落としていました。
「自分が届かなかった場所へ、娘を連れていきたい」――
そんな思いが、知らず知らずのうちに教育への熱量として表れていたのだと思います。
苦しさの正体に気づいたとき
けれど、思い通りにはいきません。
子どもは、自分の思い通りには育たない。頭ではわかっていたはずのその現実に、私は深く苦しみました。
「どうして伝わらないんだろう」
「私の何がいけないんだろう」
期待と現実のギャップに、心が揺れました。
それでも、その“苦しさ”の正体にすぐには気づけなかったのです。
なぜなら、私は“自分の価値観”を疑ったことがなかったから。
だって、それでそれなりに幸せに生きてこられたからです。
理想が崩れた日
そんな私の「当たり前」が大きく揺さぶられたのは、夫の海外転勤によって生活の環境が大きく変わったときでした。
海外での生活のなかで、私は“文化”という名の別の「当たり前」と出会います。
たとえば、娘の友達(小学2年生)から、私のことを「雅子」とファーストネームで呼ばれたとき。
日本では「〇〇ちゃんのママ」と呼ばれるのが当然だった私にとって、その出来事はとても新鮮で、同時に少し戸惑いもありました。
先生の呼び方も、「〇〇先生」ではなく、ファーストネームや苗字。
子どもたちは対等に対話し、意見を伝えることが“日常”でした。
「親=上」「大人の意見が正しい」――
そんな私の前提が、少しずつ崩れていきました。
組織に重ねて思うこと
この“違和感”は、組織におけるマネジメントにもつながります。
リーダーとして、部下に「こう育ってほしい」と願うことがあります。
けれど、その願いが無自覚に自分の「ものさし」を押しつける関わりになっていないか。
育成とは、「型にはめること」ではなく、「型を超えて、自ら考え動けるように支えること」。
私は子育てを通じて、そう実感するようになりました。
“問い”の始まりは、違和感から
ある人にこう尋ねられました。
「どうして“当たり前”にとらわれていたあなたの娘さんは、“当たり前”を疑えたのだと思いますか?」
その問いに向き合ったとき、私は「違和感」という言葉を思い出しました。
娘の出発点には、いつも「違和感」があった。
そして、その違和感に対して、私が“否定”ではなく、“問い”で返すようになったことが転機だったのだと。
親として完璧である必要はない。
むしろ、「わからないね」「一緒に考えてみよう」と言える関係性こそが、子どもの探求心を引き出していくのだと、今は思っています。
最後に、あなたへ問いを
あなたが最近、「なんとなくモヤモヤするな」と思ったのは、どんなときでしたか?
その違和感には、まだ言葉にならない“問い”が潜んでいるのかもしれません。
― あなたが見過ごしてきた“違和感”は、どんな問いが生まれそうですか?
Stay tuned for the next article!

