“良かれ”と思った助言は、誰の願いだったのか?
ある進路について子どもが希望を話し始めたとき、私は反射的にこう言いました。
「もっと上を目指したら?」
学力的には可能な範囲。でも、その“上”とは、私自身がかつて目指せなかった場所であり、憧れを抱いていた世界。つまり、子どものためと言いながら、私の願望を子どもに重ねていたのだと、あとになって気づいたのです。
当時の私は、「より良い将来のためには、偏差値の高い学校へ進むべき」という社会通念を無意識に信じていました。そして、それが子どもの可能性を広げることだと本気で思っていた。
けれど、そもそも私は子どもの願いを、しっかり聴いていただろうか?
その問いが浮かんだとき、「見守る」とは何かという根本に立ち返ることになりました。
“見守る”とは、判断を手放すこと
自分の見ている世界でしか物を言っていなかった――
それは、まさに「親の正しさ」による制限でした。私の基準で「これは無理だろう」「こっちの方がいい」と決めつけてしまうことで、子どもの視野を狭めていたかもしれません。
もし、私自身がもっと外の世界を見て、多様な選択肢に触れていたら。もっと創造的で、対等な対話ができていたのではないか。そう思うと、あの時の“助言”は、見守りではなく、介入に近かったのだと思います。
子どもだから、まだ甘い。そういう前提が、知らず知らずのうちに私の態度や言葉に染み出していたのです。
“放任”でも“管理”でもなく、「信じて関わる」
娘が自分で進路を決め、習い事を選ぶようになった頃、私も心理学を学び始めていました。
「子どもには子どもの考えがある」
この前提を本当に理解したとき、私自身も変わりました。
ただ見ているだけの「放任」でもなく、
常に先回りして正しさを与える「管理」でもない。
一人の人間として向き合い、対話し、必要なときに寄り添うこと。
それが「見守る」ということだと、ようやく体感としてわかってきたのです。
親が変われば、関係性の質が変わる。
そこには、「信じて待つ」という勇気が伴うのだと思います。
組織も同じ。“放置”と“見守り”の違い
これは子育てだけでなく、組織の中でも同じことが言えます。
新人や若手に任せるという名のもとに、完全に放置してしまう。何かあっても気づかない。話しかける機会すらつくらない。それは「信じて見守っている」のではなく、「無関心」に近いかもしれません。
一方で、「見守り」とは、相手の力を信じて任せながらも、必要なときにはいつでも対話できるようにしておく関係性です。
組織においても、上司や先輩が「信頼して見守る」ことを実践できるかどうかで、部下やメンバーの自律性や挑戦の質が変わってきます。
■最後に、あなたへの問い
あなたは今、誰かの選択を「自分の物差し」で判断していませんか?
見守っているつもりで、実は干渉したり、逆に距離を取りすぎたりしていないでしょうか。
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